安川加壽子記念資料室
安川加壽子(やすかわかずこ・1922〜1996)は、1歳より戦前のパリで育ち、戦後⻑きにわたり日本を代表するピアニストとして演奏活動や教育活動を行いました。また日本のクラシック音楽界の中心的存在としてコンクールや団体活動をリードし、生涯にわたりその発展に寄与しました。
安川加壽子記念資料室は、安川加壽子関連資料の保存と後世への継承を目的とした私設資料室で、これまで安川加壽子記念会にて資料展示・提供を行うとともに、書籍・CD等への画像提供のほか、収集・保存・展示等を行っております。
安川加壽子
撮影・大竹省二 Photographer, Shoji Otake
パリ時代の空気
安川(当時:草間)加壽子が移住した1920年代のパリは、第一次世界大戦が終結した解放感の噴出した「狂騒(狂乱)の時代」といわれる。
ラヴェルやストラヴィンスキーが活躍し、巷では初期のジャズなどが流行していた。安川加壽子が終生好んだモネも最晩年を生き、エコール・ド・パリの画家たちがたむろするモンパルナスには、後年安川加壽子が少女のリトグラフを貰った藤田嗣治もいた。一方でシュール・レアリスムやアール・デコなどモダン芸術も誕生している...。
これら新旧の創造エネルギーのカオスとなったパリの空気のなかに育った安川加壽子は、パデレフスキーやホロヴィッツ、ラフマニノフ、エドヴィン・フィッシャーなどの生演奏を聴き、胸躍らせる少女時代を送った。
この時代について安川加壽子は後年、「小さかったので後で分かったのですが、六人組やジャン・コクトー、ピカソだとかロシアン・バレエが出て来るし、あらゆる変化の多い、非常に面白い時代だったんです」とラジオ番組で述べている。
一方、外交官家庭の草間(安川)家にははるばる日本から来た賓客が次々と訪れていた。一人っ子であった安川加壽子は、幼時からルーヴル美術館やヴェルサイユ宮殿などの見物案内に連れられ、「幾十回になるか数知れぬほど」回り、広い館内の展示位置からガイドの台詞まで「一部始終全部おぼえちゃっていたくらい」であったという。
プロフィール
安川加壽子(やすかわかずこ)
1922年日本に生まれる(旧姓:草間)。翌1923年外交官の父の赴任地パリへ母と移住。渡仏する船上ですでにピアノに興味を示した。1歳よりのパリ生活でフランス語ネイティヴに育つが、家庭での日本語会話により生涯日本語の訛りもなく、完全なバイリンガルとなった。また1920年代「狂騒の時代」の爛熟した空気を吸収するとともに、幼少より賓客のルーヴル美術館、ヴェルサイユ宮殿案内などに数多く連れられ、美的な感性の基礎が高度に育まれた。
3歳でピアノ・レッスンを開始し、10歳で巨匠ラザール・レヴィの指導を受けてパリ国立高等音楽院予備科に入学、12歳で 同本科に入学し正式にレヴィに師事、1937年に15歳で一等賞卒業した。引き続きレヴィに指導を受けながら、同年に当時数少なかったコンクールの一つ第1回パリ国際婦人コンクールで名誉賞を得て(優勝)、フランス、ドイツ、スペインなどヨーロッパ各地で独奏、オーケストラとの共演、室内楽などの演奏活動を行った。
1937年音楽院卒業後もジャン・ギャロンの和声法クラスに在籍した。メシアンやデュティユーなどクラス出身の作曲家も顔を出し、ピエール・サンカンやジュヌヴィエーヴ・ジョワなどの同級生に囲まれるなか高度な音楽教養を学んでいたが、第二次大戦勃発により帰国勧告を受けた。
1939年暮れに帰国、翌1940年からNHKラジオ放送など日本での演奏活動を開始し(当時は「草間加壽子」)、卓抜な技巧と色彩感溢れる演奏、優美なステージマナーで一世を風靡、「天才少女」などと盛んに紹介された。
以来日本を代表するピアニストとして、ショパンや近代フランス音楽を日本に本格的に広めたほか(多くのフランス近現代作品を日本初演)、ドイツ音楽や現代音楽、多くの日本人作曲家の創作など幅広いレパートリーで活躍した。全国各地でリサイタルやオーケストラ、数々の名指揮者との共演を行い、また一貫して室内楽にも取り組んで、外来及び日本人奏者との共演を続けた。
1944年国文学者・安川定男と結婚し安川姓となる。不幸な戦争体験を経て24歳で講師、30歳で教授となった東京藝大などの日常的教育や自宅での個人指導、家庭生活では3人の子育てで多忙を極めるなか、1950年代後半より全国公演数が頂点に達するなど、戦後日本の成長期に粉骨砕身の尽力を続けた。
長い経験を重ね人間性、音楽性が豊かな成熟を見せるなか、1978年にリウマチを発症、1983年にはリサイタル中に指の腱が断裂し、ついに演奏活動停止に追い込まれた。
その後も体調悪化のなか1996年の急逝まで、教育活動やエリザベート王妃国際音楽コンクール、ショパン国際ピアノコンクールを始めとした世界的な国際コンクールの審査、様々な振興団体活動でクラシック音楽界を導いた。
芸術祭文部大臣賞、毎日音楽賞、フランス教育功労勲章、同芸術文化勲章、同レジオン・ドヌール勲章、NHK放送文化賞、毎日芸術賞、日本芸術院賞、ポーランド国家功労金章、東京都文化賞、N響有馬賞、勲二等瑞宝章、文化功労者顕彰、フランス教育功労勲章(コマンドール)を受ける。
日本芸術院会員、芸術家会議会長、日本演奏連盟理事長、日本ピアノ教育連盟会長・理事長、日仏音楽協会会長、フランス語教育振興協会理事長、日本ショパン協会会長、日本フォーレ協会会長、日本国際音楽コンクール運営委員長・審査員、日本音楽コンクール委員長・審査員、NHK交響楽団評議員、ABC音楽振興財団審査員長、ほか多数を務めた。
東京藝術大学名誉教授、桐朋学園大学客員名誉教授、大阪音楽大学客員教授。
受賞・受章
1947年 | 芸術祭文部大臣賞 |
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1953年 | 毎日音楽賞 |
1959年 | フランス政府教育功労勲章シュヴァリエ章 |
1960年 | フランス政府芸術文化勲章オフィシエ章 |
1967年 | フランス政府レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章 |
1970年 | 第21回NHK放送文化賞 |
1972年 | 第13回毎日芸術賞 |
1975年 | 第31回日本芸術院賞 |
1984年 | ポーランド国家功労金章 |
1986年 | 第2回東京都文化賞、第6回NHK交響楽団有馬賞 |
1993年 | 勲二等瑞宝章 |
1994年 | 文化功労者顕彰 |
1996年 | フランス政府教育功労勲章コマンド―ル章 |
国際コンクール審査員
1971年 | ロン=ティボー国際音楽コンクール(副審査員⻑) |
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1973年 | ジュネーヴ国際音楽コンクール |
1975年 | エリザベート王妃国際音楽コンクール |
1976年 | ハエン国際音楽コンクール |
1977年 | クリーブランド国際音楽コンクール ロベール・カサドシュ国際ピアノコンクール |
1978年 | エリザベート王妃国際音楽コンクール |
1980年 | ショパン国際ピアノコンクール 日本国際音楽コンクール(運営委員および審査員) |
1981年 | ロン=ティボー国際音楽コンクール |
1982年 | サンタンデール国際ピアノコンクール |
1983年 | 日本国際音楽コンクール(運営委員および審査員) |
1985年 | シドニー国際ピアノコンクール クリーブランド国際音楽コンクール |
1987年 | エリザベート王妃国際音楽コンクール |
1988年 | モントリオール国際音楽コンクール |
1990年 | ショパン国際ピアノコンクール(病欠) |
1991年 | エリザベート王妃国際音楽コンクール ロベール・カサドシュ国際ピアノコンクール(病欠) 第1回浜松国際ピアノコンクール(運営委員および審査員⻑) |
以後は体調悪化により日本国際音楽コンクール運営委員長(1986年より)、国際コンクール世界連盟総会への出席等となる。
安川加壽子記念資料室
所蔵資料
○ビデオ資料
1978年、1981年の演奏会より数点(寡少ながら安川加壽子の芸術、奏法の歴史性、教養が感じ取れる資料)、その他インタビュー映像や晩年のドキュメントなど。
○写真・画像資料
パリの幼少時代より晩年までの、公私にわたる紙焼き写真、ブロマイド資料、データ画像:約百点
○音声資料
SPレコード:約20種、LPレコード:数十種、CD:約20種、カセットテープ:数百本
○演奏会プログラム・チラシ・サイン・自筆原稿・パンフレット等
戦前、戦中より1983年までの独奏、室内楽、オーケストラのソリスト、テレビ収録会等のプログラム、チラシ等:数百点、サイン色紙:数点、ブロマイド:数点、各種パンフレット:約20種、自筆原稿、手帳等
○各種雑誌等
終戦前後より現在までの記事や批評等掲載の各音楽雑誌、月刊誌、週刊誌、団体の機関誌等:数百冊
○新聞記事
全国紙を中心に主として1970年代以降現在までの記事:数十点
○書籍・楽譜
代表的著作、評伝のほか、関連記述を含む書籍:数十点、運指や解説、翻訳などの全教育版楽譜シリーズ(現在入手不可能なもの含む)、監修名入り楽譜等
※安川加壽子の情報を項目ごとにご覧いただけます。
利用案内
開室日程 | 不定期・お問い合わせフォームの開室日程ご案内をご参照 |
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入室・閲覧料 | 無料(要ご予約) |
アクセス | 東武スカイツリーライン草加駅徒歩 3 分 |
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